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第92話 西園寺柚葉の仕事

last update publish date: 2026-10-05 20:00:00

伏見部長との対峙から、数週間が経っていた。

季節は完全に秋へと移り、街路樹の葉が少しずつ色づき始めていた。会社帰りの風に、金木犀の香りが混じるようになった。

その日、村田さんに会議室へ呼ばれた。

◇

「西園寺、少しいいか」

いつもの穏やかな声だった。でも、この数ヶ月、何度も同じような呼び出しを受けてきたせいで、少しだけ身構えてしまう自分がいた。

会議室のドアを閉め、向かい合って座る。村田さんは、しばらく何も言わず、ただこちらを見ていた。

「業界団体の報告書、読んだよ」

その一言に、心臓が跳ねた。

「五年前のこと、話してもらえるか」

覚悟を決めて、話し始めた。

前の会社での横領事案。それに気づき、内部通報を決意したこと。証拠の集め方に問題があったこと。

結果として、無関係な同僚を巻き込んでしまい、会社を辞めざるを得なくなったこと。

そして、その五年前の出来事が、今になって、業界団体からの正式な報告という

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  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第92話 西園寺柚葉の仕事

    伏見部長との対峙から、数週間が経っていた。季節は完全に秋へと移り、街路樹の葉が少しずつ色づき始めていた。会社帰りの風に、金木犀の香りが混じるようになった。その日、村田さんに会議室へ呼ばれた。◇「西園寺、少しいいか」いつもの穏やかな声だった。でも、この数ヶ月、何度も同じような呼び出しを受けてきたせいで、少しだけ身構えてしまう自分がいた。会議室のドアを閉め、向かい合って座る。村田さんは、しばらく何も言わず、ただこちらを見ていた。「業界団体の報告書、読んだよ」その一言に、心臓が跳ねた。「五年前のこと、話してもらえるか」覚悟を決めて、話し始めた。前の会社での横領事案。それに気づき、内部通報を決意したこと。証拠の集め方に問題があったこと。結果として、無関係な同僚を巻き込んでしまい、会社を辞めざるを得なくなったこと。そして、その五年前の出来事が、今になって、業界団体からの正式な報告という形で繋がったこと。すべてを、正直に話した。もう、隠す必要はどこにもなかった。◇村田さんは、しばらく黙って聞いていた。腕を組み、時折小さく頷きながら、最後まで口を挟まずに聞き続けてくれた。話し終えると、会議室にしばらく静寂が流れた。「……よくやったな、当時」村田さんが、静かに言った。その一言が、胸の奥にじんわりと沁み込んでいった。五年間、誰にも言われたことのなかった言葉だった。正しいことをしたはずなのに、誰からも肯定されないまま、ただ一人で抱えてきた過去。それが今、こんな形で少しずつ報われていく。「ありがとう、ございます」声が、かすかに震えた。村田さんはそれ以上、深くは聞かなかった。ただ、「大変だったな」とだけ付け加えて、会議室を後にした。◇その後の数日は、拍子抜けするほど、いつも通りの日常だった。企画書を作り、打ち合わせに

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第91話 真帆のその後〜真帆side〜

    【真帆side】澄川奈緒の一件、伏見という人物との対峙。柚葉から、それらの顛末を聞いたのは、すべてが少しずつ落ち着きを取り戻した、九月の終わりのことだった。あたしがまだ何もできずにいる間に、柚葉は自分の手で、過去の全部にけりをつけていた。その事実に、遅れを取ったような、それでいて誇らしいような、複雑な気持ちになった。だったら、あたしも。まだ一つだけ、自分の手でけじめをつけていないことがあった。黒瀬さんに、会いに行くことにした。◇黒瀬グループの本社ビルは、これまで何度か訪れたことがあった。でも、今日ほど足取りが重かったことはなかった。エントランスの自動ドアを潜る瞬間、心臓がいつもより速く音を立てていた。アポイントは、事前に城島さんを通して取っていた。柚葉には、事後で構わないから、と伝えてあった。これは、あたし自身で決着をつけなければならないことだと思った。◇応接室に通されると、黒瀬さんはすでに席についていた。以前、パーティー会場で『場所をわきまえてください』と言われた時の、凍りつくような声を思い出す。今日、この人がどんな顔でこちらを見るのか、想像するだけで背筋が冷えた。でも、実際に顔を合わせた黒瀬さんの表情には、あの夜のような怒りはなかった。ただ、静かに、値踏みするようにこちらを見ているだけだった。静かすぎることが、かえって落ち着かなかった。「……お忙しいところ、すみません」「いえ」短いやり取りの後、しばらく沈黙が続いた。何から話せばいいのか、頭の中で何度も準備してきたはずの言葉が、いざとなると出てこなかった。深呼吸をして、あたしは口を開いた。「……柚葉の姉として、あなたに謝らなければならないと思って来ました」黒瀬さんは何も言わずに、ただ黙って聞いていた。「あの子を、ずっと利用してきました。脅して、身代わりにさせて。今回の記事の件

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第90話 過去の清算

    私は一度、深く息を吸い込んだ。「取締役会に届いた、黒瀬グループの内部文書。あれを送ったのは、あなたですか」伏見部長の目が、初めて揺れた。一瞬、しらを切ろうとする気配があった。でも、それも一瞬だけだった。「……もう、知ってるんだろう。今更、しらばっくれても仕方ない」自嘲するような声だった。「柊さんは、もう証拠を掴んでいます。文書の書式が、うちの会社のものと一致していたと」「……そうだよ。悪いか」開き直ったような答えだった。「業界にしがみつくには、それくらいしか手が残っていなかった。それだけだ」そう言った後、伏見部長の目に、また別の光が宿った。「お前も、いい思いをしてるんだろう。黒瀬の女になって。俺を切り捨てて、うまくやったもんだ」その一言に、周りの空気が一瞬冷えたように感じた。挑発だと、すぐにわかった。動揺を誘って、少しでも優位に立ちたいだけの、最後の悪あがきだった。以前の自分なら、ここで言葉に詰まっていたかもしれない。だけど、もう違った。「黒瀬さんは、私が何者でも関係ないと言ってくれました。あなたのような人には、一生わからない感情だと思います」静かに、でもはっきりと返した。伏見部長の顔から、すっと血の気が引いていくのが見えた。窓の外を、通行人が何人か通り過ぎていった。喫茶店の中は、コーヒーの香りと、重い静寂だけに満ちていた。◇「……今更、詫びるつもりもないでしょう」しばらくして、私は静かに言った。伏見部長は、答えなかった。ただ、視線を落として、テーブルの木目を見つめていた。「私も、詫びてほしいわけじゃない」正直な気持ちだった。この人に謝ってほしくて、ここに来たわけではなかった。「ただ、伝えたかっただけです」椅子から、静かに立ち上がった。手をつけなかったコーヒーカップに、一度も口をつけないまま、伝票を手に取る。「私は、間違っていなかった」

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第89話 元上司との対峙

    伏見部長から指定されたのは、会社から少し離れた、古い喫茶店だった。かつて、あの会社にいた頃、何度か打ち合わせで使った場所だった。当時と変わらない古びた木の扉、色褪せたメニュー表。懐かしさよりも先に、胃の底が重くなるような感覚があった。会社帰りに何度も通った道を、今は違う立場で歩いている。同じ景色のはずなのに、当時とはまるで違って見えた。葵にだけ、簡単なメッセージを送った。『これから、伏見部長に会ってくる。終わったら連絡する』すぐに既読がつき、返信が来た。『無理しないでね。何かあったら、すぐ電話して』その言葉に、少しだけ気持ちが軽くなった。一人で行くと決めたのは、これは自分自身で決着をつけるべきことだと思ったからだった。◇喫茶店に向かう道すがら、何度も足が止まりそうになった。以前、元上司と鉢合わせそうになったとき、ビルの柱の陰に隠れて息を殺していた自分を思い出す。あの頃は、声を聞いただけで体が竦んだ。けれど、今は違う。足取りは重いけれど、止まってはいない。それだけでも、随分と遠くまで来たのだと思えた。店の扉を開けると、奥の席に伏見部長がいた。五年前と比べて、随分と痩せていた。かつては自信に満ちていたその表情は、今はどこかやつれ、目の下に濃い隈ができていた。仕立ての良かったはずのスーツも、心なしか肩の辺りが余って見えた。業界団体からの正式な処分──失脚という現実が、この数週間でこの人からすべての余裕を奪い去ったのだと、一目でわかった。「……座れよ」促されるまま、向かいの席に腰を下ろした。「ご注文は」店員が水を置きながら尋ねてきたが、コーヒーを一杯頼んだだけで、それ以上は答えられなかった。運ばれてきても、手をつける気になれなかった。しばらく、重い沈黙が流れた。膝の上で重ねた手に、無意識に力がこもっていた。かつて、この人の前では、いつも言葉を選び、顔色を窺っていた。

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第88話 奈緒の転落

    休憩時間に入り、会場のロビーに人が流れ出した頃、近くにいた女性二人が、小さく囁くのが聞こえた。「澄川家の会社、黒瀬グループとの契約、解除されたらしいですよ」「え、本当に?」「取引上の不備が、色々見つかったとか」囁きだったはずのその声が、なぜかロビーの隅々にまで届いているような気がした。人々の視線が、少しずつ奈緒さんから離れていくのが、はっきりとわかった。これまで、業界の集まりでいつも中心にいた人が、今は誰からも話しかけられることなく、ロビーの端でぽつんと取り残されていた。かつて、私に『その速度を、少し遅らせることができます』と余裕たっぷりに告げたあの人が、今は自分自身の立場を守る言葉すら見つけられずにいた。◇しばらくの沈黙の後、奈緒さんが、荷物をまとめて出口へ向かおうとした。その背中に、私は声をかけた。「奈緒さん」彼女の足が止まった。振り返った奈緒さんの目に、驚きが浮かんでいた。「もう、私たちに構わないでください」声は震えなかった。かつて、この人の一言に怯えていた自分は、もうどこにもいなかった。奈緒さんが私を見て、それから柊さんを見た。何かを言おうとして、言葉にならないようだった。「……あなたたち、本当に厄介ね」低く、絞り出すような声だった。これまでのような企みも、余裕も感じられなかった。ただ、疲れ果てたような響きだけがあった。それだけ言って、奈緒さんは逃げるように会場を後にした。ヒールの音が、来た時よりもずっと速く、乱れていた。◇その背中を、私は静かに見送った。同情はしなかった。ただ、心の中で静かに思った。奈緒さんは、いつも計算で人を動かそうとしていた。柊さんの過去の情に付け込み、姉の真帆に情報を求め、私の弱みを盾にして。すべてが、損得と計算の上に成り立っていた。でも、その計算だけの生き方の果てに残ったのは、誰も味方をしてくれない、孤独な背中だった。

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第87話 奈緒、最後の悪あがき

    業界向けのカンファレンスが開かれたのは、あの報告書を見せられてから、数日後のことだった。会場は、都心のカンファレンスホールだった。秋の気配が濃くなり始めた午後、広告・マーケティング業界の関係者が集まる、年に一度のシンポジウムだった。柊さんは、黒瀬グループとして後援に名を連ねており、パネルディスカッションの登壇者の一人でもあった。私は、案件の担当プランナーとして、関係者席に座っていた。取引先の役員、業界紙の記者、関連会社の担当者たち。誰もが、それとなく私たちの方に視線を向けてくることに、以前ほどの緊張はもう感じなくなっていた。守られているという感覚ではなかった。ただ、隣に立つ人と、同じ方向を向いているという確かさがあった。半年前の自分だったら、この場所に座っていること自体が、想像もつかなかった。姉の名前を借りて、嘘をつきながら、いつ誰かに見抜かれるかと怯えていたあの頃とは、もう別人になっているような感覚があった。パネルディスカッションが進む間、私は登壇席の柊さんを見ていた。淡々と、でも的確に質問に答えていくその姿は、いつも見ている「不器用な優しさの人」とはまた別の顔だった。この人の隣に立てることを、改めて誇らしく思った。◇奈緒さんが姿を見せたのは、午後のパネルディスカッションが終わり、質疑応答の時間に入った頃だった。会場の後方の扉が開いた瞬間、私はすぐに気づいた。あの姿勢の良さ、あの隙のない歩き方を、見間違えるはずがなかった。いつも通りの、隙のない装いだった。でも、その笑みの端に、以前にはなかった硬さが滲んでいるのを、私は見逃さなかった。胸の奥で、小さな緊張が走った。何かを企んでいる、という予感が、その姿を見た瞬間から離れなかった。質疑応答の順番が回ってきた時、奈緒さんが、まっすぐに手を挙げた。マイクを受け取り、会場全体に届く声で、彼女が切り出した。「業界の信頼性について、伺いたいのですが」その前置きに、周囲がわずかにざわついた。「西園寺柚葉さんの

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第5話 鳴らないはずの電話

    一段階低くなった姉の声が、耳の奥に刺さった。『あたしが今の彼との話をまとめるまで、黒瀬の目を逸らし続ける必要があるの。黒瀬家とうちの家、色々と込み入った事情があるのよ。あんたが勝手に終わりにして、黒瀬側から実家に何か連絡でもされたら、全部おじゃんになる。わかる?』「わかってる。でも──」『断るなら、五年前のこと、全部バラすから』返事も待たず、音が消えた。また、五年前のことで脅されてしまった。昔から、姉は私の弱いところを探すのが上手かった。私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第4話 終わったはずが

    『先程は、お時間をいただきありがとうございました。──黒瀬柊』彼からのメッセージは、それだけだと思っていた。数秒後、同じ番号から、もう一通届いた。『次回、ご都合の良い日を教えていただければ、合わせます』画面の番号を、もう一度確かめた。間違いない、黒瀬さんからだ。お見合いの書類に載っているのは、姉の連絡先のはず。さっき、私が口頭で伝えた番号──黒瀬さんはそちらに送ってきたのか。「合わせます」という一言。感情がない、と思った。温かくもなく、冷たくもなく、ただ的確だ。

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第2話 偽物の名前

    ゆっくりと扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間、思わず立ち止まりそうになった。高い天井に広がる、クリスタルのシャンデリア。香ばしいコーヒーの香りと、白く気高く咲き誇る大輪の胡蝶蘭。磨き上げられた大理石の床に、自分が履いている安物のヒールの音がカツカツと不躾に響く気がして、それだけで萎縮しそうになる。場違いにもほどがある……。心の中で小さく呟き、緊張で強張りそうになる手を、そっとドレスの上の膝に置いた。ここで怯んだら、一瞬で「偽物」だと見破られてしまう。案内された席に着いた瞬間、背筋が自然と真っ直ぐに伸びた。膝を揃えて座る。手をテーブルに乗せない。視線を落としすぎないように前を向く。

  • 身代わりお見合いの花嫁〜冷徹社長は偽りの愛を見抜いている〜   第1話 姉の身代わり

    「あなた、西園寺真帆さんじゃありませんよね?」その一言で、心臓が止まった。白いカップを持つ指先から、血の気が引いていく。震えそうになる手を悟られないよう、私はそっとカップをソーサーへ戻した。小さな陶器の音が、静まり返ったカフェにやけに大きく響く。どうして?どうしてバレたの?「……何のことでしょうか」かろうじて笑みを作る。けれど、目の前の彼は微笑みもしなかった。「無理に誤魔化さなくて結構です」向かいに座る男──黒瀬グループの社長である黒瀬柊は、こちらをまっすぐ見ていた。責めるでもなく、怒るでもなく。ただ静かに、"真実"だけを見

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